pianississimo パリの三善アパルトマンを出ることにした。 遠い昔、ある3人が家庭を創ろうと暮らしていたアパルトマンの一室 男は新進気鋭のピアニスト。女は何代にも亘り財をなしてきた、富裕な家柄の社長令嬢。 恋して結ばれた男と女 そして、間に誕生したのは、銀のスプーンを銜えるのに相応しい小さな暴君、一粒種の坊や。 最高の環境で素晴らしい音に囲まれ、何不自由のない毎日を送る。 第三者から見たら、其処には絵に描いたような幸せがあるように見えたかもしれない。 けれど、現実は・・・・ 自我に目覚めたばかりの幼い男の子にとって、唯一の居場所だったその部屋。。。 〜〜〜 Très très faible 1 〜〜〜 俺がのだめと巴里に渡ってから住んだ其処には、今、日々、生き生きとして鮮やかな世界があって。 自分を待っていたように起こる出来事、俺自身を待つ者がいる温もりに満ちた暮らしを知ったこの場所…… 俺は待たれている……その感情は両刃の剣で、 期待に応える為に精進に繋がるかと思えば、逆に道の中途にある自分を甘やかな魅惑にいざなう。 青春の只中にあり、楽聖の記した道しるべを無心にたどり自らの成長の糧とする学生…… 学びの途にある者と一緒のテンポで暮らすことは、音楽の世界で食べていこうと思う俺には赦されないことなのだ。 燦然と輝く、師と崇める巨匠たちの後ろ姿を思い浮かべる。 幼い自分の棲家で塒だったこの場所で音楽に出会い、自分は「音楽」に一生賭して悔いない恋をした。 躊躇無くその道に進める環境、好きな音楽に専念させられるだけの財力に与れた自分は幸せなのだと思う。 小さい頃だって父が音楽家だっただけにその才に通じるものがあれば誰もが手を差し伸べてくれる。 けれど、この場所が自分が求める音で満たされることはその頃は、決して無かった。 その頃、家族と言うほとんど意味をなさない名で呼ばれていた三人は、揃って顔を合わせることさえなく、 思い出せば、明るい想いの一つより歯を食い縛って涙を堪えたことばかりだったような気がする。 けれど、今では……違う想い、そう、のだめとの賑やかで色鮮やかなパッチワークで綴られた日常が此処にある。 何より、あの頃欲しかった音で満たされている。 ……変態なだけに蒐集した布切れもとてつもなく希少価値な気がするが、 彼女の音は、いつもこの部屋で自分に寄り添い、音楽を手に入れることへの尽きない衝動を掻き立ててくれる。 けれど、自分は…… このままでは、彼女に溺れてしまう。今でも翻弄され過ぎているというのに。 もし、のだめが、アイツと同じように自分を置いて行ったら…… 自分が、自分の音楽が崩壊するのが眼に見えるようで、それは絶対に避けなければならないと思った。 この俺様が……と思うと、無性に可笑しかった。 過去に女と別れたことなどあったし、 もっとも近い別れは、彩子で…… 自分は彼女の歌声に魅かれ、いつの間にか深い仲にもなったはずなのに…… まだ体すら重ねてもない、のだめのことしか考えられない自分に呆れる。 だいたい女としての自覚がのだめ自身に足りない。 然るに、音楽が己の頭から離れた瞬間に彼女のことで占拠される思考回路は、すでに自分が変態の森に深く分け入り、彼女の世界に仲間入りを果たしてしまった証拠だと俺はいよいよ、腹を括ったのだった。 それにしても、俺は何を目指しているのだろう? いつか巨匠と呼ばれ、尊敬する師たちと肩を並べて演奏することだろうか? 音楽の世界にずっと留まりたい。 けれど一介の町の音楽家として終わりたくない?……おこがましいことだ。 今の自分には音楽家として、この先やっていけるのか確信さえ無いのだ。けれど、俺は…… 胸に何かが詰まってる気がする…… はるか遠くに思いを馳せれば、それはこの部屋から始まっていた。 記憶の底に眠るアイツのピアノの音、何も解からぬまま、音にくるまれていた幼い自分。 ただ、追いつき乗り越えたかったのだと思っていた…… もしかしたら、飛行機や船が怖かったのは、無限の宇宙の中で独りぼっちで息絶えるのが怖かったんじゃないのかもしれない。 音楽のもとに行きたい。自分が考える光溢れる美しい音の世界に…… だけど、海を越えても届かないかもしれないから。 人の創造し発達させた術の中で、もっとも感性を直接訴えかけられる音楽…… 演奏者が唄い、奏でるどれ一つとして同じではない音の波の中心に身を置いてそのエネルギーを操り、聞く人の心に音楽を響かせられたら、と。 それこそが自分が求める究極の喜び、生きる目的だと思っていたのに。 駄目かもしれない。高みを目指す才能も情熱も自分に足りなかったら、と思うと…… 道を目指す前に、アイツに鼻で笑われたら……ああ、でもそうじゃないんだ。 もう、アイツを意識した時点で負けだ。これは自分自身と向き合って自分ひとりで乗り越えていくことなんだから。 その道を究めるのは簡単なことじゃない。 そう、どうしたって・・・細くて険しい道は独りで上らねばならず、 途切れそうな道を必死に辿れば、誰もいない惨めな獣道。 況してや今までみたいに、のだめが手を差し伸べてくれる隙なんてないし、 目指した光射す高みに登っても、孤高の世界が待っているだけだったり、 アイツの二の舞いになるだけだったりするかもしれないとか…… こうしていても、心に溢れだす音の渦の中で、伝えられるメッセージをリズムを刻みたいと思う。 じっとしていられない。 せめてアイツの視野に、自分の存在を意識させ、 無駄なことなど一つもなかったと、 命とか愛とか、その道を生きてきて間違ったことなど無かったのだと、証を突き付けたかったはずなのに…… 遠くなってしまう、過去の自分。 一旦、荷物を預けて旅に出なければ、その重さで身動きとれなくなってしまうに違いない。 アイツのことなど関係ないことだって思っていた……思い込もうとしていたのだ。 けれど、海を越えたから自分は出来る。 皆だって、口を揃えて言ってくれる。 現に若手指揮者の最も権威あるとされる登竜門ブラティニ国際コンクールの栄冠を手にした。 それでも不安は消えない。約束された成功などあるはずはないのだ。 いいや・・・心の奥底で自分に向けて怜悧な刃物を翳す自分がいる。 自分が自分を見失ってはいけない。自分の欲を押し殺して音楽に昇華させて奏じる機会を得てそんな魔法を手にしたい。 自分が望むままに演奏する。自分の音楽を・・・・ どうしたって、今までの自分があったからこそ、今の自分があるわけだから、置いていっても、結局は其処に戻って来れるはずだ。 今は尊敬する師匠のもとで、音楽と向き合ってちゃんと揮が振れる指揮者となるためには自分のありったけで当たらなければならない。 狡いけど、そうしないと圧倒的な音楽の波の中で自分の道が拓けるはずがない。 俺が上に行かなければ…… 今では、それは自分だけの夢ではないのだ。 いつか、俺が…… 最高のオケを率い、ピアニストを指名出来るような指揮者となれた暁には 俺の前で真摯な輝く眼差しを俺に向けるピアニストは…… 彼女であって欲しいと…… 誰にも言わないけが胸の内では、彼女しかいないと決めている。 もし高みに…… 巨匠たちやアイツがいるステージまで到達出来たとしても、 自分がそこまで上るまでは、まだまだ先の方が長いから…… 彼女の一番傍にいて、誰より先に彼女に手を伸ばせるという甘い誘いを一旦切り離す 夢は時に逃げ道になって、袋小路を作る この想いを言い訳になんて、使いたくないから、だから、のだめ、今は…… 自分たちの進むべき道をしっかりと踏みしめて歩もう。 大丈夫、俺は決しておまえを見失いはしないから……
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