海の香の遠くより 1 (遥かなる想いをのせて)ここは、海苔工場で加工した製品を荷造りする作業場兼事務所。 野田夫婦の昼間の仕事場であり、汗や涙を流しながら日常を暮らす溜まり場でもある。 博多の某デパートに商店街中心で参加する物産展の話合いから帰ってきた辰男はまず、此処に顔を出す。 すると、テレビの前で画面に見入り、動かない洋子の姿があった。 心なしか、その肩が丸まっていつもより小さく見える。 「ヨーコ、おまえ、なんばしとっと…… しょうもない、今は荷分けの時間だろうも…ん っ!?」 辰男は息を飲んだ。洋子が見ているのは、地デジ化は鹿男の親戚か?と言いたくなるほど年季の入ったテレビで、同じくラック下段の超レトロなビデオデッキに稼働ランプが灯っている。 いつもの位置に陣取って前のめりに画面に見入っているのは、成程、見慣れた連合いに違いない。 でも……見かけに寄らず鋭い辰男は、その肩が震えているのに気付いたのだ。 泣いている........ どうして?___辰男は戸惑った。 洋子が笑う時に小気味良いリズムを刻むその優しい肩の輪郭が、今、生まれたばかりの仔鹿の鼻のような頼りなげにひくついていた。 何とか気を取り直し、辰男は気を引き立てるように軽い調子で声をかける。 「まぁ歳とりゃ、涙もろくなるとしかたなかとけん。 そなこつ、この仕事、仰山詰まっちょる時に、何も梅仔…… 」 __ 梅子スペシャルで泣くなんてありえんとばい。母さんも、焼きば回ってしまったとばってん 辰男は続けようとして気づいた。 洋子が見ているのは、いつも二人して夢中になる梅子サスペンスや昼の奥さま劇場ではなかった。 これは・・・ここで録画したものではないかもしれない、思考が飛んだ辰男が思いたったのは脈絡ないことである。 だいたい、オーディオを含む機械類全般は野田家の跡取りである佳孝がそれなりに上手くやってくれるので、辰男はいつもおっとり構えている。 つまり、画面いっぱいに映し出されていた映像は、辰男が予想だにしていなかったもの・・・ そして、辰男とて一日だって忘れたことがない、愛しい娘の晴れ姿だったのである。 洋子の涙が辰男の胸を打つ。自分の眦に久々の感触が走り、辰男は瞠目した。 瞼の裏に、遥か昔の面影がまるで昨日に出会った人物のごとく、浮かびあがる。 白い岬の突端に建つテラコッタ色の洋館、若い船乗りの自分がそれまで聞いたこともない調べが聞こえて来る。 天使の奏でるセレナーデだ・・・・ 「波留乃.......」 忘れ得ぬ名・・・辰男は思わず、長い間、封印してきた名前を口にしていた。 いや、幸せな事に彼女の顔は日々の暮らしの中で思い出しもしなかったのだ。 いや、今まで忘却の海底に沈めて姿もみなかった方が不思議なのだ。 振り返った洋子に辰男は照れくさそうに頭を掻いた。 「恵も年頃なんね。 番茶も出端って大分、晩稲だけど、ほんに綺麗になってしもうたもん。 何だか、かぐや姫の婆になった気がしたわ・・・・ 」 「ばい。 これなら、千秋くんも落ちるしかないやろね。 けど、ちと惜しくなっちゃるき 」 「おとうさん、そげんなこつ言って。 にしても……似ておろう?」 「・・・・・」 言葉が返って来ないことが辰男からの何よりの返答である。 「忘れた、なんてことは言わんことよ。 契った女子おなごを忘れるようなあんたじゃないことくらい…… 何年、こうして海苔ば、梱包しとると思うちょるの、まったくんとこ 」 盛大に吐息を吐いた辰男が言葉を続ける頃には、二人のいつも日常が動き出していた。 「忘れとった・・・・・・。これ見て思い出したとばい。 冷たいとかそういうんじゃなくて、ほんとにな。 おまえと子供ら…… 両親も加わって、それが俺の家族だから。 恵と佳孝……子供らがどんなにか支えになったとね 」 「よう似とるばい?」 「ああ。 恵に何ぞあったんだろうか? 一心不乱にピアノ打ちこんでる恵はこわいとね。 まるで何かに憑かれたように見えるとばい。」 「ここでピアノ弾いて恵とは違うばい。 にしても、恋しちょる恵は、どこまで姉さんに似とるとかね? 」 「ヨーコ……大丈夫よ。娘ば信じんでどうする? 恵の目ば見てみんさい? ちゃんと、音楽を愛し、ヒトを愛し……千秋くんば、ちゃんと愛してる光が宿ってると 」 「・・・ばい……、今、恵ば、危うい伸び盛りの若い力……つまりは爆弾抱えてるとね。 野田家の長女だもん、何とかやるばい。 生きる喜びも苦しみも健やかに受け止めて、ちゃんと胸張ってピアノ弾き続ける 」 「仏蘭西は遠いとばい……」 「長い事、恵には作れなかったんよ。紫色の服…… 姉さんに一番似合う色だったと。 恵には大人っぽいと思うとったし、思おうとしてた・・・・」 「あの子も、そういう年頃になったってこと。 いつかは…… 」 「血は争えんってことかね。 身体……あの娘は体質はひ弱じゃないけど、まさか・・・・」 「縁起でもないこと言ったらいかん。誰が何言うても、恵はヨーコと俺の娘じゃき。 それにさ、今出て来た波留乃さんは笑うとうたよ。 儂が長いこと思い出しもせんでおまえと暮らしとったことを寧ろ喜んどったもん。」 何年ぶりか、こんな所で来ないな事をするのは___ だが、辰男は洋子の肩を掌で包み抱き寄せた。 「 恵ば、千秋くんと仲良うやってるかねぇ 」 甘くなった洋子の呟きが辰男に届く。 二人はもう一度、画面に映る美しく成長した娘の姿に見入り、オーケストラを従えた圧倒的な娘のピアノに耳を澄ませるのだった。 |
(2010.12.5.)