月光に染む 1
千秋先輩の荷物を運び出して、この部屋が空っぽになった気がします。
この部屋に一人居るだけなのに……
今まで何度だって、こんなことはあったのに……
何だか、迷子になったような心細い気がします。
まだ宵の口なのに、もう 空には、お月さま。
今夜は三日月……美人サンがモード風に描いた綺麗な弓型がくっきりと綺麗です。
夕明りに照らされて、静かにピアノが存在を主張します。
ここのピアノの方がのだめの部屋にあるより、いい音だからって……
のだめがこのピアノを奏けるように、先輩はのだめがこの部屋を使えるように征子ママに言ってくれました。
先輩が私を連れ、初めてこのアパルトマンのロード・オブ・ザ リングの門をくぐった日も、
この部屋のピアノは、窓から降り注ぐ光を浴びて、私を誘ってて、 そのキーの上に私がそっと指を置くと、
心が震えるくらい澄んだ響きを部屋にゆき渡らせたっけ。
ああ、音楽の神さまに愛された千秋先輩は、ずっと小さい頃から此処でこの音に抱かれて育まれてきたんだな、って思った。
先輩に 「弾いてみろよ」 と優しく促がされて弾いた、私の拙い演奏でもピアノはちゃんと素敵な音を鳴らしてくれて。
初めて友達になったピアノさんです。
今も同じように私に 「弾いて楽しくて気持ち良い世界にいきましょう」 って話しかけてくるピアノさん。
もちろん……これから、私は先輩から譲り受けたアナタともっともっとお近づきになれますよ。
ピアノさんの誘いに応え、私はCのキーを陽気にスタッカートで弾いた。
違う…… あの時の音じゃない
全然違う音がします……
綺麗に響くのに、ちょっと美人サン過ぎて取り入る隙がないような堅い音
もしかすると……
ピアノも先輩が戻って来ないのを知って凍りついて固まってる?……みたいな…
ああ、先輩が戻らないって知ってるから、こういう音になっちゃうんですかね?
そうですよ。
ピアノだって、きっと解ってんだと思いマス。
部屋には、まだ、先輩の物はところどころに残ってます。
全部は持って行けないとか言いながら、そのまま、のだめが使えばいいって。
良く出来たオットだとは思います。
完璧主義で、音楽以外はストイックな……
先輩は意地悪で見ようによっては、すごく冷たく見えるんだけど、ほんとは凄く優しいヒトです。
そじゃないと、あんなふうにtオケの皆から素敵なハルモニを引き出せるわけないもん。
悔しくなるくらい素敵な先輩の演奏。
先輩の指揮棒は、最高の音を紡ぎ出すための魔法の杖……
どうしてあんなふうに音楽に忠実にすべてを捧げられるのか、のだめはそのヒントさえヨーダに貰えないでいるんデス。
ほんとは先輩に言われるまでもなく、
自分が一番、このままじゃいけないって思ってた……。
ツマに尽くすオットに甘え、頼り、寄生してたのは自分。
この頃は時々、遠慮ってもんも覚えましたが…… むんっ
メソメソしてくじけてちゃいけないっ
のだめ、シンイチくんのツマですから……
でも、それでも…… 解ってていても…… 寂しい。
涙は零しません。
顔で笑って心で泣こいて……
ピアノさん…… アナタならのだめの気持ち、解ってくれマスよね?
夢をみたんです。
満月の夜に摘まないと間に合わないって。
時間がないって。 マンドラゴラを摘みに行っちゃいました。
今しか出来ないことがあるから…… 先輩が指揮者として、音楽家として
世界一になるためには、マンドラゴラを集めないと
いつだって……今でも……のだめの一番で、それはずっと変わんないんデスけど、、、、
今はちょっとそこまで行けば、先輩に会うことだって叶うのだけど、
満月はこれからだって、幾千回も来るんデスね。
きっとのだめ、今は……
先輩が欲しいって思う、マンドラゴラを持ってないから。
今は、自分の球根を育てて、株分けして、花だって咲かせちゃったりして
いつか、先輩が外にいかなくてもいいくらい、魅惑的なピアニストになってみせなくっちゃ。
のだめだって、急がなくっちゃ。
頑張りマスよ。 頑張らないと、シンイチくんの傍にいられなくなっちゃう……
そいえば、先輩は、のだめにちゃんと、引越しのこと、話そうと思ったって、
調律師さんとの話をのだめに訊かれて、すごく焦ったって、言ってくれた。
そう……引っ越すこと打ち明けてから、マルレの定演を一つ終えるまでは、此処にいて、
のだめに毎日のように呪文料理を食べさせてくれて……
余計に思い出すと哀しい。
食卓の美味しい湯気の向こうにあった、のだめを見てる先輩の顔。
ふふ、たとえ二人のディナータイムにもれなく、音楽やら学問やら人生について諭す先輩の説教が付いてたとしても。
粘着気質なのに、フェロモンむんむんなシンイチくだから。
そんなシンイチくんを独り占めしたいって思うのはいけないことですか?
どんなに手を伸ばしてものだめの手の届かないとこにいて、音楽を奏でてるシンイチくん。
此処に来てみろって。 待ってるって。
そう言いながら、どんどんのだめとの間は開いていくばっかしで……
今だって、全然追いつけないのに、先輩はまっすぐに自分の歩調で歩みを進める。
決して停まることのない先輩の脚は長くて速くて……
馬鹿なのだめが考えたこともないくらい、素晴らしい音楽の世界に一人で行っちゃうんです。
「おまえなら出来る。信じてる……」 って。
嘘吐きは泥棒の始まりデスよ。 先輩……
怖くて……
のだめがシンイチくんの傍でピアノを弾けないようになっちゃったら。。。
そうですよ、責任とって下さい。
シンイチくんの傍にずっといたいから.....
ミルヒーにこのままじゃいられないって言われて、これでものだめ頑張ったんデス。
のだめ、先輩に会うまでは、音楽があれば生きていけるって思ってて
それは今だって、そうなんだろうし
でも、今……先輩に
おまえいらないって、おまえ、諦めて日本に帰れって言われたら
どうするんだろうって……
とっても怖い……
でも先輩が世界一になる邪魔だけにはなりたくないから、きっと、のだめ、日本に帰ると思う。
ここでのシンイチくんの思い出とパリの匂いがする音楽を持って
生きていかないといけないなら、音楽はやめられないしやめたくないんデス。
そすれば、生きていけるって思うし
人間、幸せとか半分でも、半分どっか魂が彷徨ってても生きていけるもんだと思うから。
先輩に会うまでののだめの夢……幼稚園の先生.....だたデス。
お世辞とか飾ったり衒ったりしない澄んだ瞳がのだめを見つめてくれて
この部屋にいた時、のだめのピアノに耳を傾けてるシンイチくんは、
目を瞑って、時には眉を寄せて難しそうな顔して考え込んでたりする。
彼は、幼稚園生みたいにその瞳いっぱいにのだめを映したりしてくれないけど、
のだめといる時は……
ピアノ聴いてる時は、のだめだけのこと考えてくれてるって思っていいんデスよね?
でももし、シンイチくんがのだめのことうざったくなって、
もう、のだめのピアノさえ聴きたくなくなってしまったら……
怖いけど…… のだめだって、すごすごとこのまま諦めたりはしません。
ピアノさん、お月さまと見守っていて下さいね。
のだめ、頑張ります。
のだめだって、のだめにしかできない音楽があるはずだから。。。
でも、今だけ……
今だけは、乱れて情けない、哀しい音が出ちゃうのを赦して……
そんなふうになりながらもピアノを弾き続けるのだめを、少しだけ昇って来た眉月が見ていた。
のだめの心情にも関わらず、蜻蛉の翅のように透明にはためいて舞い落ちる音の粒は、切なくいほどの甘やかさで部屋を満たしていく……
のだめは知らないけれど、
それを聴いたアパルトマンの住人は、一人残らず、新進気鋭の指揮者とピアニストの卵のこれからに想いを馳せたのである。


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