Le Lac des cygnes
une musique de Piotr Ilitch Tchaïkovski (opus 20)
もうすぐ迎えるコンセルヴァトワールの卒業演奏会に備えて、昼も夜も練習に明け暮れるのだめは、その夜も朦朧として眠りにつこうとしていた。
日本からの音楽留学生として通ったフランスの才能ある音楽家の卵たちの学び舎である。
何度も挫折しそうになって、道の途中で迷子になりそうにもなった。
けれど、いつも最後に耳を澄ませば、聴こえなくなっていた自分の心の声が聞こえた。
真実の答は、誰にだって教えて貰えない、いつだって自分の心の中にだけあるのだ。
「耳ガイイから、余分ナことまで聴こえちゃうんデスかねェ・・・・・
のだめも…… センパイも…… 」
ベッドに身を投げ出すと、覆いかぶさるように睡魔がのだめの全身を占拠した。
今は苦しくは無かった。
卒業記念の公演に出られるのは、上位の成績保持者だけで、のだめはちゃんと実力でその権利を得たのだ。
公演の最後には各学年の奨学金の授与、最終学年で専科別に最優等の成績を修めたものを讃えるメダル授与式が行われる。
一番の名誉はやはり、最優等でパリ国立高等音楽院を卒業することなのだろうが、のだめはそのこととは関係なく、とにかく集大成の演奏をすることに総てを賭けている。
彼女にとっては、まず、その演奏会で弾けること自体が嬉しかったし、彼女をそこまでさせるのは、千秋がその日ばかりは、のだめの晴れ姿を見に駆けつけてくれることが決まったからだ。
千秋が最初に見に来ることをのだめに告げた時、のだめはランベール夫人のサロン・コンサートのこともあり、期待してはいけないと思ったのだが、シュトレーゼマンが
「ノダメちゃんの晴れ姿、チアキと一緒に万難を排して見に行キマ〜ス♪」 と高らかにエリーゼの前で宣言したのを聞いてから、それはのだめの心の中で燦然と輝くメルクマールとなったのである。
自分ノ今出来ル最高ノ音楽ヲ 今マデ のだめヲ支エテクレタ センパイやミルヒに……
導いてくれた、総ての人に届けるつもりで、演奏したい
そう思ってからの、のだめの集中力は……語らずとも、
いつもの、ホタルのだめ製造工程........ の最上級版、容赦無し、無限ループ……ばりの凄まじいもので
それはまるで、半ば天才と狂人は紙一重だということの極悪非道の実写版ビデオを見ているかのごとく……
外出も一切せずに食事も生命保持するのにぎりぎりしか食べないのだめは、真白い顔に
怪談の1反木綿さながらにペラペラと薄く、それでなくても華奢な体躯は一層、重さを失くしていく毎日だったのである。
しかし、アパルトマンの住人たちの心配を他所に、全身全霊をピアノに向ける彼女のバイタルサインは、いつも変わらない彼女のピアノの音。
冴え渡り、踊りたくなるほどの生命力溢れる音
迷いなく宙を旅しはじめる旋律…… それらはのだめの精神が完全に健全であることを示していたのだが……
アパルトマンの住人は何かあったら、すぐに駆けつけることを誓い合いと、秘かにのだめが万一倒れた時に入れる評判の良い病院を決めていたりしていた。
 
まだ自己抑制の利かぬ幼子のように、ベッドに横になったかと思えば、すでに深い眠りの森に迷いこんだ恋人を千秋は穏やかな気分で眺めていた。
「ったく、どーいうことだよっ
この俺さまが此処に昨日から来てやってることも忘れてるって……」
クークーと寝息ををたてる唇はやや色が淡いけれど、艶やかで、千秋は今更ながら、彼女の師匠であるシャルル・オクレールに感謝した。
千秋がヴィエラのもとでオペラ指揮の勉強することになり、長期に渡りアシスタントアートスタッフとして4か月間、彼のすべての公演に同行することになり、しばらくの間、オクレールがのだめを内弟子という名目で自宅においてくれたのだ。それは、千秋に言わせるとまことに賢者オクレールのなせる技。。。。
つまり、コンヴァトでののだめの人となりをつぶさに見守っていたオクレールは、彼女の致命的な欠点に気づいたのだ。
もちろん、彼女がマスター・ヨーダと呼ぶオクレールはピアノについては、厳格で高度、そして決して安直な指導をしない佳き指導者なのだが、彼がのだめに見出した「欠点」は音楽的なものではなかったから。 千秋はやはり、そこに気が付くヨーダはやはりフォルスに満ちていて、自分の師匠とは別の老練な手腕を感じるのである。
そう、千秋の大切な宝物である、のだめ には、致命的な欠点がある。
それは、人としてどうかと思うくらいの欠陥…… である、と千秋は思うのだ。
だが、彼女はその欠陥を欠陥とは思っていない。
・・・・・
思っていないから、それは人としての欠陥……と言えるほどに進行してしまったのかもしれない。
はぁぁ〜
千秋は溜め息をついて、そっと、彼女の柔らかい、細くてなめらかに茶色い髪に口づけを落とした。
かすかにミュゲとフリージャーの混じったサボンの匂いが彼の鋭敏な嗅覚を喜ばせる。
オクレールは自ら、自宅でマイフェアレディの如くとはいかないまでも、彼女を年頃の女の子……のだめとしては最大限の……まあ、きっと今どきだと中学生レベル?いや、小学校も高学年でもこれくらいの娘はいるかもしれないが……くらいの常識を植え付けてくれたようなのだ。
のだめは能天気にも電話をかけてきて言ったものだ。
「ヨーダったら、のだめにおじきのしかたとか、ドレスの選び方とか、化粧のしかたをちゃんと憶えろって、
結局、知り合いのひとのやってるフィニッシングスクールの短期養成講座に行かせるんですヨ。
なんか、ますますのだめを混乱させて喜んでるみたいで・・・・」
その時に俺はどんなにオクレール先生に感謝したことか……
結局、のだめには不興を買ったが、オクレールはピアニストは人前で音楽を奏でオーディエンスを夢の世界に誘う必要がある職業だから礼儀作法、立ち居振る舞い、話し方やメイク、ファッションなど、内面にともなう印象を自分でプロデュースしなければならないと彼女を諭したらしい。それに殿方にとって、パートナーの女性がきちんと社交的なお付き合いの場でひとりでコミュニケーションとれると言う事は自分の立場が上にいけばいくほど、必要になってくるとか、化粧とかウォーキングひとつで男はコロっと行くこともあり、それを食い止めるためには、自分も「目には目を歯には歯を」なのだ、と言うところで、何故か、のだめは納得して、素直に彼の指示に従うことにしたらしいが……
おまけに基礎体温をつけさせ、アッカンベーをして舌や下瞼の結膜の色を見て貧血の有無等、健康チェックを習慣にさせた。
これは凄いことだが、さらに後日、オクレール先生の奥さんが実は13区界隈で話題のパティシエールで、のだめにホームベーカリーを使った失敗しないパン作りのコツとか、簡単なプディングやパテの作り方とか、手抜きだけど美味しい蒸し料理に煮込み料理なんかを教えてくれたらしい。 対して、のだめはオクレール夫妻に御礼に日本のなべ料理を振る舞ったというので、やっぱり俺ののだめは何処までいっても、のだめであるには違いない。
「結局、健康優良児でレディであることが、ピアニストの第一条件? ってことなんデスカ 」
「さぁ、オマエの場合は、レディである前に人間になれってとこかな?」
「ヒドイ、しぇんぱい。 あんまじゃないデスか?
のだめだって、のだめだって…… シン・・・チくんのバ〜カ、おたんこなす!
う・・・ひっく・・・・ 会えないの我慢して、電話で声聞くと・・・哀しくなるからヤなのに
電話しろってから、電話すれば……」
「オマ…… なんだよ、そのオタンコナスって。
・・・泣くなって 悪かったヨ。
泣かすつもりなんて…… 」
「ふぇ〜〜ん」
「お願いだから、これじゃ眠れないだろ、俺が……」
「!?っ
のだめの心配じゃなくて、ゴジブンの明日のお仕事のこと考えてんデスね、シンイチくんっ
くっ 馬鹿にスルとヤ無カ、 もう、リコンですっ じゃ、切りますヨ 」
電話を切りそうになったのだめを必死に思い止まらせる為に、ドスをきかせるつもりで、反って裏返った声が自分の耳元にもキンキン反射して俺は口走る。
「ま、まぁ待て、こっちで金のカズオ人形、見つけた…んだ 」
「フ・・ほぇ?」
「勘弁してくれて機嫌治してくれらら、貰って来てやるから」
受話器の向こうで、鼻を啜りあげる音がする。
「のだめ?」
「・・・・・」
「ノダメさん?」
「それだけじゃ、赦シマセン、シンイチくん 」
「何だ、他に俺に出来ること、あるのか 」
「言ってクダサイ……」
このひと言で、彼女の言わんとすることが解ってしまうって、俺、どんだけ彼女に好いようにされてんだか…… のだめのくせに。
「っワぁ〜ったよ、 め・ぐ・み……あ、ぅあい、、、してる・・・」
「・・・・なんですか、電話が遠いせいじゃないと思いますが、イイでしょ。
のだめ、理解あるツマですから。
良いピアニストは良いツマから始めるのが近道デスかね? 」
「・・・馬鹿いってんじゃないよ、おまえ・・・なぁ・・・・」
「アレ、何か唄みたいデス。。。何の・・・・」
千秋の回転の良い頭は、その歌詞に 『×年目のウワキ』が入っていることを即座に思いだし、この先ののだめの思考を断つことが肝要だと結論づける。
さすが、未来音楽界を背負って立つコンダクターである。
「とにかく、俺も、早く帰りたいよ。
おまえのとこにな。 だから、もうちょっと我慢してろ。
そしたら、少しオフとれるから、そっちにいられる…… 」
「シン・・チ・・・くん。 会いた・・・・アイシテマス。
待ってますから・・・・ はうん、金のカズオ・・・・ 」
「おう、待ってろ・・・って、ソッチかよ 」
 
こうして、俺はヴィエラ先生にのだめのことを洗いざらい吐かされて、やっと譲って貰ったカズオ人形(実はヴィエラ先生がプリごろ太の隠れファンなことはのだめには口が裂けても言えない。
それに金のカズオを彼は2体所有していて、なんとか譲り受けた方は間違って少し縦長に作られた不良品らしい、彼女もそこまでは気づくまい)を手にパリに帰って来ると、自分の部屋に帰り一通り所用を済ませるとのだめの部屋、つまり元の俺の部屋に辿りついたのだった。
慌しい時間、のだめのピアノの音の波に身を任せながら、基本的な生活習慣を無意識にある程度出来るようになったのだめの部屋で料理を作る。
確かに俺の『呪文料理』は、のだめをこっちの世界に覚醒させるための威力を持っているようで、俺は、こういう技を持っていて、つくづく良かったと思うのだ。
「ぴぎゃー、先輩、金のカズオですヨ。
この高価な輝き! 山吹いろ・・・・
それにしても ププ― こ、これはっ 」
「(どきっ) な、何だ・・・、気に入らない・・・」
「わけないデスよ。
異国の地で、先輩はのだめの事、思わなきゃ、こんなものに振り向きもしないはずデス。
のだめ、愛されちゃってんデスよぅ・・・・・あへーー 」
「ば、馬鹿・・・・ 相変わらずで……
まぁ、良かった・・・・ 」
「優しいです、先輩。 ちょと変?
具合は大丈夫デスか? そいえば、このカズオって。。。」
のだめは金のカズオを矯めつ眇めつ、手にとって眺めている。
「あ〜、217/500!!
はふん……やっぱり……」
「だから、いったい何なんだ?」
「ちょっと本物か疑っちゃいましたけど、刻印は確かデス。
それも217は先輩ゆかりの数字、コレこそ、プレミアシンイチくん化したカズオですネ♪ 」
「何だよ、ソレ・・・・」
「このカズオ、ちょっとばかり、スマートなんです。
ほら、むっくり感が違うデショ? わかりませんか?」
―― わかるもんか。それより、そんなに愛しそうにその人形を擦るな。
―― 障るなら、本物の方をだな・・・・
「シンイチくん……。 何だか、目ガ紅い……熱が……」
「ああ、上がったよ。
おまえが冷ましてくれなきゃ、苦しいから・・・
よろしく…… 頼むな 」
「むっつり、カズオ...... 」
「そ、餌もやったし、お気に入りも貢いだし、ちゃんと褒美くれ 」
「シン……ち…… アイシテマス……」
「わ・・・テル 」
いつまでもおしゃべりが続きそうな気配に、もはや、我慢も限界の千秋は、強引にのだめを絡め取り、恋人同志の時間へと先を急いだのである。
 
細い三日月に照らされ、白いシーツの上に無防備に投げ出された肢体は、意思を手離し、無心に夢の世界を彷徨っている。
華奢だけど、どこも此処も千秋の欲望を煽るに十分な曲線を描き、地上に遣わされた彼の天使は羽を休める。
千秋は長い睫の蔭を白い頬に落として眠る、恋人の繊細な顔を食い入るように眺めた。
―― ほんとうは俺は……
―― ずっと自分の傍に縛りつけておきたいくらい、おまえのことが……
可笑しいだろう、千秋は思う。
相手はのだめだぞ、あののだめじゃないか。
まっすぐに白くて大きな翼を広げて飛び立ったのニちゃんと俺の傍に戻って来る……
のだめ、おまえ白鳥みたいだな。
白鳥は優雅に湖上を滑っているように見えて、必死に水面の下で水掻きを動かしてる。
おまえを此処まで連れてきたのが、俺だとするなら、もしかして、俺にも羽は生えてるのか?
おまえの天使になりたいなんて、贅沢はいわねぇえど。
白鳥の番いは一生添い遂げるって言うしな。
おまえが俺に向かって必死に水を掻くなら、俺だって一緒に掻いてやるよ。
そうしたら……
人から見れば、それは最高にすばらしい音楽になるのかもしれないな。
俺たちの場合はきっと、それが愛の形なのかもしれない・・・・・
その時、のだめの唇の端が上がり、彼女の桜桃の唇が完璧な形の弧になった。
―― それ以上、誘うなよな。 この小悪魔が……
だが次の瞬間、千秋はトドメを刺された。
「シンイチくん…… 大好きデス。
アイシテマス。 あなたに…会…ために……
きっと…… のだめはピアノを弾いてきて……」
これからも、ずっと……傍にいたいから 」
弓をひいたのは、アフロディテかクピドか?
甘酸っぱい、その痛みは、何とか抵抗しようとする千秋を、まるで容赦ないエリーゼの砂漠のプロメテウス作戦のように凌駕した。
―― 堪らない…… ゴメン、のだめ
―― これじゃ、世界のNODAMEのオット、失格だな
―― でも、しょうがない夜だってある。 今夜の三日月は淋し過ぎるから……
「のだめ、それじゃ風邪ひくだろ……
こっち、来いヨ、あっためてやるから 」
「nn・・・・ シェンパイ あったかいデス 」
「アイシテルから・・・」
「ほぇ〜、さびしん坊サンですか? シンイチくん.....」
「ん、そうかもな。
今夜だけは…… こうして、繋がってたい 」
「のだめ・・・も……
そうしたかった///デス……」
―― それ以上言わなくていい。 言葉じゃ足りないんだ。
―― 俺…… もう、おまえ無しじゃ……
零れた三日月の光にさえ、彼女の素肌に触れさせるまじとばかりにしっかりと彼女を腕に抱き込んで、思いの長け限りを籠めて愛の行為に没頭する千秋なのでありました。
そんな二人の心の熱は、儚げに雲間から覗く三日月にまで届くくらい、濃く部屋中を愛に染め上げていくのであるました。

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